町民が新調やぐらに希望した最大の特徴は、「下出に伝わる物語を盛り込んで欲しい」というものであった。
下出地区は非常に歴史のある町である。特に紀州遠征の為、波太神社に本陣を置いていた織田信長にまつわる昔話がたくさん残されている。下出に在住する歴史学者の坂本氏の協力の下、町内に在住する沢山の長老の意見を取り入れ、馬川原に残る伝説と大願寺建立場面を採用した。
馬川伝説
下出の東部を流れる一筋の川がある。地元の者からは『馬川』と呼ばれ、以前は炊事に、洗濯に、また飲料水にと重宝される大変綺麗な水流であった。綺麗な水があると聞きつけた府は、この地に浄水場を建築してくれないかと地元民に持ちかけた。その地を所有していた者たちは、「地元住民のため。ひいては阪南住民みなのため」と無償同然で提供し、建てられたのが下出浄水場である。
この川には大昔から伝わる話がある。
時は1577年、紀州根来討伐の際、織田信長が石田の波太神社に本陣を置いたことは有名である。その際、大阪より紀州へ抜ける道を軍道として整備したものが、下出・黒田から鳥取へ続く信長街道であり、この道の通行量は飛躍的に上昇することとなった。
ある日、信長の家臣の馬が重い病気にかかる。動くこともままならなくなったこの馬は、ついには下出付近を通行中うずくまり一歩も歩けなくなってしまった。途方にくれた信長の家臣は地元の住民にどうしたらよいものか、と尋ねてみた。
住民が言うには、「下出には聖い水が流れる川がある。その水を飲めば病気などたちどころによくなるでしょう。」
それを聞いた家臣は川で水を汲み、病気の馬に飲ませた。すると間もなく馬は立ち上がり、大地を蹴り、大きく声を上げた。その様子を見た家臣は驚き腰を抜かすほどであった。 話を聞いた信長は住民に礼をあげ、川の名を『馬川』と、馬が立ち上がった場所一帯を『馬川原』と名づけた。
その後も馬川は下出住民の生活水として親しまれ、綺麗な水流を保ったまま現在に至っているのである。
大願寺建立風景
下出地区のほぼ中心に位置する大願寺は、浄土宗知恩派の寺院である。下出地区辻氏の娘、善心尼が辻の道場として永禄三年(1560年)開基したものが寺の起こりとされている。大願寺には、善心尼が刻んだと伝える浄土法脈の曼荼羅様式の石造板碑が残され、碑には永禄十二年二月十五日と年号が刻まれており、正面上部に阿弥陀立像、中央には善導大師、左に法然上人、下部に善心尼の像が浮刻されている。その後まもなく大願寺は織田信長の勧告により、本道を喪失することとなる。
大願寺十四代重蓮社誓誉上人は二十六歳の若さで大願寺住職となり、一生を大願寺の再建に力を尽くし、元禄十六年(1703年)六十一歳にて大願寺の再建を果たした。本堂が完成すると村人は挙げて参拝し、御念仏を唱えた。誓誉上人が説教のため高座に上がろうとしたとき、その場に倒れ伏した。村人は必死で看病したが、誓誉上人は亡くなられた。誓誉上人は幾多の苦難の末、本堂再建の宿願を達し、その落慶法要の場で亡くなられたのである。
大願寺再建にまさに命を懸けた誓誉上人の偉業を称え、大願寺は今日まで町のシンボルとして親しまれているのである。
ちなみに、神社神道祭礼の神の分身(乗り物と考えられている)やぐらにお寺の彫刻を配するのはいかがなものかといった意見も多く、新調委員は苦難するのであるが、波太神社の宮司さんの意見を聞いたところ、「波太神社は阪南市内のお寺とは何れも深い繋がりがあるので問題はない。神仏関係なく地区に伝わる話を入れることによって、よりやぐらへの愛着がわくのではないか。」との意見を頂いたことにより、この場面を採用することに決まった。
なお、新調やぐら彫刻に多大なる意見を頂いた下出在住の歴史学者の坂本氏はまた書道師範としても有名であり、新調やぐら彫刻場面の墨入れを行う予定であったが、新調やぐらの完成を見ることなく平成19年に永眠されている。ここにご冥福をお祈りいたします。
















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